2022年10月16日日曜日

Africa

サモリ・トゥーレ(1830-1900)
西アフリカのサモリ帝国の創設者。西アフリカ独立運動の先駆者。
マンディング地方(現在のギニアとマリ)に生まれる。当時分散していた小国家を統一し、フランスやイギリスの帝国主義に抵抗した。
1898年にフランス軍に捕らえられ、流刑地であるガボンで病死した。

クワメ・エンクルマ(1909-1972)
ガーナの民族運動の指導者で初代大統領。鍛冶屋の息子として生まれる。教員となり1935年に渡米、リンカーン大学、ペンシルベニア大学大学院で学び、1945年に渡英。ロンドン経済大学に入学。パン・アフリカ運動の指導者となる。1947年、ゴールドコースト統一会議党の結成で書記長として迎えられ帰国。1949年には会議人民党(CPP)を結成。1950年、反英騒動で投獄される。1957年ガーナの独立で首相、1960年ガーナ共和国発足で大統領に就任。
1966年、軍事クーデターにより失脚。ギニアに亡命し、1972年に客死。

アメリカから解放された奴隷たちが建国したリベリア(1847年)、イタリアの侵略を退けたエチオピアは植民地化を免れた。1910年、南アフリカ連邦がイギリスの自治領として独立し、南アフリカ共和国に改称。1922年、エジプトがイギリスから独立。

ギニア
 ボーキサイトの埋蔵量は世界埋蔵量の1/3と言われ、第二次世界大戦後に注目された。フランス資本により採掘が開始された。フランスとの関係が悪化するとアメリカやソ連資本からの技術援助によりアルミナ工場の建設を進めた。
 1950年代、アフリカ全土で独立の機運が高まるとフランスの植民地だったギニア、セネガル、コートジボアール、トーゴ、ベナン、アルジェリアに対し、フランス大統領ド・ゴール大統領はネオ・コロニアリズム(新植民地政策)を持ちかけた。表向きは植民地の独立を認めながらも、実質的な政治・経済・軍事面などは宗主国に従属させようとするものであった。
 独立直後のギニアにはソ連共産党が接近し、武器や食料援助を行いながら社会主義政権を作り上げていった。社会主義政権ではギニア民主党(PDG)の一党独裁体制であった。地方農村は中国の人民公社の影響を受けた。1978年になると国名をギニア革命人民共和国と改称した。
 1984年3月、セク・トゥーレが死亡し、ベアボギ首相が首相代行となる。4月にサナ・コンテ大佐による無血クーデターが起き、コンテ政権が誕生した。ギニア民主党(PDG)と国民議会は解散し、国体は社会主義体制から自由主義体制に変わった。国名はギニア共和国に戻された。



参考文献

オスマン・ユーラ・サンコン(1995):オスマン・サンコンのアフリカ事典. 株式会社国際開発ジャーナル社

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